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【江戸時代を学ぶ】 「寺子屋」の実態 第4回(最終回) 〈25JKI00〉

明治維新後の「寺子屋」と学制

明治5年に学制が発布され、その後の短期間で全国に小学校を開設することが出来たことは、江戸時代における「寺子屋」制度の普及に負うところが極めて大きいと云えるのである。そしてそれは、当時の多くの「寺子屋」がそのまま小学校に転用されたり、またその師匠たちの多くが新設の小学校の教師として採用されたことが物語っている。従って「寺子屋」制度が土台となって、その上に明治の新学制が築かれて行ったと考えても間違いではないだろう。

だが一般的には明治5年の学制の発布において、そこで従来の「寺子屋」が一斉に消滅して、当時の子供たちは皆が新たな制度の小学校に通い始めたと錯覚している場合が多いかも知れないが、実際にはその様な事はなかったのである。

維新直後の小学校に関しては、その教授内容があまりにも現実生活とかけ離れていることで、一旦は通ってはみたが旧来の「寺子屋」への通学にまい戻る子供もいたとされるし、当初から「寺子屋」を選択する「寺子」もまだまだいたのだった。こうして「寺子屋」はしばらくは従来通りの形で存続し、新制の小学校と併存し続けたのである。

※『日本教育史資料』には女子生徒だけを対象とする「寺子屋」の具体例が一つ記録されており、それは明治4年11月に開業した士族・太田信義の姉の奥原晴湖によって営まれている『春暢家』であるが、そこでは“支那書画”が10歳から20歳までの女性生徒3人に教授されていたと記録されている。

※更に具体的な例としては、栃木県の『精光堂』なども明治28年までは新たな入門者を受け入れ、明治34年まで存続していた。

また小学校の側も、開設当初は江戸時代末期の「寺子屋」とそれほどは変わらない随時入学・随時卒業の体制であり、半年毎の進級試験にパスすれば上位の教程に進むというもので、特に入学式や卒業式もなかったとされる。

だが卒業式の開催は、小学校が義務教育となって学年制が導入された明治19年の教育令以降から実施される様になり、当初は6月に行われたのが5月にと繰り上り、次いで4月、やがて明治26年からは3月に実施される事が定着したのだった。

そして明治期の教科書は、明治5年の学制発布によって標準教科書が決められたが、実際に何を教科書にするかは現場の教師・学校に任されており、当初は欧米の教科書を翻訳あるいは抄訳編輯したものが使用される場合が多く(翻訳教科書時代)、例えば当時のベストセラーだった福沢諭吉の著書『学問のすゝめ』なども広く利用されていた。やがて明治14年5月には届出制、次いで明治16年には認可制となり、その後の明治18年になると検定制へと変わり、最終的には明治37年に国定教科書となったのである。

 

ところで小学校となって大きく変わったことは、まず天神机が西洋風の椅子と机になったことだ。机の向きも教師に向けて皆が同じ方向となり、同学年(同教程)であれば教科書も全員が同じものを使用した。即ち、画一的な一斉教育が始まり、皆が同じ内容の授業を受けたのだった。こうして、教育は個別指導ではなくなったのである。

生徒が教室に入るのも一斉となり、事前に整列してから号令に従い行進して入室した。そして着席も教科書を用意するのも号令に従い、授業の進め方は全てが号令一下となる。

 

この様な教育制度に関する明瞭な変革が起きて、将来の立身出世の為に広くより高い知識を身に付け様という向上心を持って入学する子供も増えたことは事実だが、未だに大部分の生徒にとってはその向上心の対象範囲は従来の身分制度の枠内に止まっていた。そこに更なる変化が見え始めるのは、明治時代も10年代半ば以降からであろうか…。

※戦前は「末は博士か大臣(・大将)か」といって、多くの青少年男子が勉学を経て出世して成功を目指すことになるが、この頃は学者・政治家・官僚・職業軍人となることが成功の証であった。

ちなみに、学制の発布では教師に男女の区別をつけないとしているが、こうして女性教師の登用が公に認められたのは良いとしても、その後の教育内容の画一化や男女同質化から、特に女子教育については(女子向けに特化した)江戸時代のそれと明治期のそれとでは連続性が失われ、この学制改革こそが我国古来の女子教育の断続点となったと指摘する考えも存在しているのだ。

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