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《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -15》 竹田永翁と槇島重利、そして細川元勝 〈25JKI28〉

さて、やがて永翁も天正12年(1584年)には豊臣秀吉に仕え、初め秀吉の祐筆となった後に慶長15年(1610年)頃からは物頭に任じられた。

大坂の陣では『鴫野の戦い』で活躍し、天王寺・岡山での最終決戦で毛利勝永(豐前守吉政)らと共に徳川方を攻撃したが、この天王寺表への出陣の際は毛利勝永の与騎として天王寺の南門筋に陣取り、勝永勢の左先頭には淺井周防守井頼、その左側に結城權之助、更に左に竹田永翁隊が各々幅50間程の堀切を前にして天王寺東門口に備を立てた(『鵜飼佐太夫大坂陣繪圖』、『大坂御陣覺書』)とされ、そしてその時の永翁の兵数は凡そ100騎程度とされている(『毛利系傳』)。

だが、この戦闘の最中に永翁は佐久間勝之勢に討ち取られた(『慶長日記』によれば「竹田永翁首、佐久間大膳亮か家來討取進上申候」)と伝わるが、大坂城の落城時に嫡男の和吉高友と共に大坂城大広間千畳敷で自害したという説が有力である。

確かに『寛政重修諸家譜や佐久間家の文書『佐久間軍記』には「人のかたに掛り退敵御座候を大將と見、乘よせ言葉かけ候得者、竹田永應のよし名乘申間、則討捕申」とあり、佐久間勝之の家臣が大坂夏の陣で豊臣方の武将・竹田永翁の首級を挙げたと記されているが、この記録に関しては多くの疑問が呈されている。

最終決戦で竹田永翁が天王寺表に出陣している事は事実としても、実際にはその翌日に大坂城で自害しているという史料(『竹田範十郎先祖附』・寛政四年八月竹田半彌書上先祖附』・『細川家記』・『駿府記』・『土屋知貞私記』・『北川遺書記』・『松原自休大坂軍記』・『大坂御陣覺書』・『大坂籠城記』・『豐内記』・『寛文九年佐々木道求大坂物語』等々)も数多くあるのだった。

また『おきく物語』(備前池田藩の医師であった田中意得の祖母・菊の大坂城落城の際の体験談を聞き書きしたもの)などでも、「御臺所へ出申候へハ、武田榮翁くろき具足を着て居申候、其外に見知らさる士も二人居申候」とあり、竹田永翁が落城をひかえた大坂城中に引揚げてきている様子が描かれている。

そこで、実際に佐久間勝之の家臣が討ち取ったのは誰か? という疑問の回答としては、大坂の陣で戦死した別の武将、法印(法眼とも)・竹田定白の存在が挙げられるが、この人物の号は『寛政重修諸家譜』では英甫とされ、『竹田家譜』には永翁齊とある。

極めて騒々しい戦場においては、名乗りを聞いた相手(佐久間家)方の将士が“エイホ”と“エイヲウ”を聞き違える可能性は否定できない。同じ竹田性で年恰好が近ければ、佐久間勝之の家臣が敵将を間違えたとしても致し方ないかも知れないのだ。

但し『竹田家譜』では、定白は大坂落城時に城外の竹束の上で自害したとされており、更に佐久間勢との接触・戦闘についての記載等は全くないので、ことの真相は不明のままである。

尚、討手の側の佐久間勝之は、織田氏の家臣・佐久間盛次の四男である。柴田勝家の養子となり、後に佐々成政の配下として活躍したが、成政が羽柴(豊臣)秀吉に降ると関東の後北条氏に仕えた。後北条氏の滅亡後には蒲生氏郷の家臣となり、氏郷の死後は秀吉に仕えて信濃国長沼城主となる。更に秀吉の死後は徳川家康に接近、家康の口添えを得て近江国山路に3,000石を与えられたとされる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦い、慶長12年(1607年)に江戸城内へと移居。その際に常陸国北条に3,000石を加増され、合計1万石を領して大名となった。

大坂夏の陣での竹田永翁を討ち取った功名により、信濃国川中島と近江国高嶋郡内の一部を加増され、信濃長沼藩1万8,000石の藩祖となった(貞享5年/1688年5月15日に改易・除封)。

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