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《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -15》 竹田永翁と槇島重利、そして細川元勝 〈25JKI28〉

続いて、同じく幕臣出身でこれも最終的には細川家の臣となった槇島重利である…。

槇島重利

槇島重利 (まきしま しげとし)は昭光とも名乗っていたとされ(昭光別人説・同族の他者説等もあり)、官名は玄蕃允を称した。山城国宇治槇島眞木嶋)城主であった槇島輝元の子で、重利の妻は上野清信の姉であったともされる。

また父親の輝元の居城である槇島城(館)は、上山城地方(山城国宇治郡・久世郡・綴喜郡・相楽郡などの南山城地域を指す)の要衝の一つであり、そこには元来、宇治郡槇島地区を本貫地とする槇島眞木嶋)氏が勢力を張っていた。そしてこの槇島氏は、室町期の後半には幕府の奉公衆等として将軍家直臣団に名を連ねるなど、幕臣内で比較的高い地位にあった様子である。

こうして重利(昭光)も初めは足利家に仕え、室町幕府15代将軍の足利義昭が織田信長によって京都を追放され各地を放浪した際には、幕臣のひとりとして付き従ったとされる。“本能寺の変”を経て豊臣政権が成立した後、帰洛した義昭が出家して昌山道休と号した後にも引き続き仕え(昌山には山城国宇治槇島付近で1万石が与えられた)、やがて昌山の死去を看取った重利は、その後に豊臣秀吉に仕官、奏者番/奏者役(諸事を主人に取次ぐ役職)として2千石を拝領した。

大坂冬の陣では城の西側を守備した。そして夏の陣では道明寺方面に出陣して奮戦(『道明寺の戦い』)、翌日の天王寺・岡山での最終決戦では一心寺と天王寺の間付近に布陣して戦ったとされる。

大坂城の落城後に脱出、剃髪して云庵と号する。後に細川忠興の家臣となり無役ながら豊前にて1千石を与えられ、元和9年(1623年)頃からは中津城の御留守居役となった。

 

最期は、細川家嫡流の京兆家より細川元勝に登場願う。

細川元勝

細川元勝(ほそかわ もとかつ)は、別名が頼範(よりのり)とも。但し、彼の生家である細川京兆家の通字は「元」なので、元勝の方が本来の諱であり、頼範の「頼」の字は後年、豊臣秀頼から偏諱を賜ったものである。永禄4年(1561年)生まれで、幼名は六郎という。

元勝は細川昭元(丹波国の守護職)の長男で、母は織田信長の妹・お犬の方。官位・官名は従四位下、讃岐守並びに侍従である。彼の細川家は細川京兆家であり、元勝はその第20代目の当主。そして同家は室町幕府で管領家を務めた名門中の名門であり、一時は将軍をも凌ぐ権力を有していたが、三好家などに次第に力を奪われ没落していった。尚、父親の昭元は織田信長の蹴鞠の相手であり、元勝本人は秀吉の御伽衆となった。

同様の旧室町幕府体制下の名族では、但馬国守護職であった山名祐豊の三男・山名堯熙の嫡男である山名堯政が大坂の陣において豊臣方として討死しているが、彼は元勝と懇意であったとされる。この山名堯政には幼い煕政という息子がいたが、陣後、煕政は堯熙の父親である山名祐豊(煕政の曽祖父)に仕えていた山名氏旧臣の清水正親の養子・清水恒豊(しみず つねとよ)として幕臣に列して家系を継続した。同じく名族の出である畠山政信(畠山尾州家)などは、片桐且元の家臣を経て一時期は豊臣家の直臣となるが、やがて且元の動きに合わせて大坂の陣の開戦前に徳川家の傘下に入る。将軍家近侍として典礼や儀式を司った彼の子孫は江戸幕府の高家の内の一家となり、幕末までその家系は続いた。この畠山家の様に、秀吉の死去や関ヶ原の合戦の結果、早々と徳川家に近づいた旧室町幕府の幕臣たちも多かったとみられる。

さて元勝は秀吉の死後、大坂城で豊臣秀頼に近侍して小姓頭として5,000石を拝領していたとされ、大坂夏の陣では大坂城に篭ったが、陣後には織田家などの親族の徳川家への嘆願により助命され、細川家と縁の深い京都の竜安寺に蟄居する。次いで大和高島に移され(讃岐国で隠棲したとも)、その後、姉妹の円光院が秋田実季に嫁いでいた縁で常陸宍戸藩秋田家に客将として迎えられたが、寛永5年(1628年)に死去した。

尚、長男の義元(よしもと)は秋田氏が移封された陸奥三春藩に仕え重職を勤めた。次男の元明(もとあき)の家系も藩の重職として続いた(桜谷細川氏)とされる。

戦国が終焉した後に江戸幕府の体制が整っていく過程で、肥後の細川家(細川奥州家)は同じ幕臣出身者であった過去を持つ者たちの中で、豊臣方について没落していった足利将軍家の家臣(幕臣)たちの生き残り組みの多くを、家臣として受け入れたり支援している。当然乍らそこには(同じ幕臣の僚友で婚姻関係もあった)明智系の武将たちもおり、細川家の身代の増加に伴い彼らの数も増えていった。

また室町(足利)幕府の有力者であった守護大名の多くが、足利氏の幕府瓦解の後、一時的に豊臣政権に取り込まれて(実態は潜り込んでというのが実情か)存続したが、更に豊臣氏の滅亡後は次代の幕府、即ち江戸(徳川)幕府の少身ながら直臣または陪臣として、その後の時代を生き延びていくのだった…。

-終-

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