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塗絵(ぬりえ)画家 蔦谷喜一と『きいちのぬりえ』〈3053JKI37〉

戦後に出版されて一大ブームを巻き起こした『きいちのぬりえ』シリーズの塗絵(ぬりえ)本は、当時の女子から絶大なる人気を誇りましが、レトロでモダンな“カワイイ”少女たちの絵は、現在でも変わらず人気の様です‥‥。

蔦屋きいち関連の画像

 

蔦谷喜一(つたや きいち)は、東京都出身の画家・塗絵(ぬりえ)作家で、2005年に91歳の高齢で亡くなる寸前まで、画家としての活動を続けていた人物です。

彼は、東京市の京橋区(現・中央区)新佃で大正3年(1914年)2月18日に紙問屋「蔦谷音次郎商店」を営む蔦谷家の9人兄弟の五男(次男との資料あり)として生まれました。実家が裕福であった為に何不自由なく育った彼は、当時最先端の流行のファッションに身を包み、自宅近隣の銀座の街を闊歩する所謂モダンボーイでした。

また、幼少期より人物画を好んで描いていた喜一は、17歳の時、帝展で山川秀峰の作品『素踊』を見て感銘を受けて画家となることを志し、昭和6年(1931年)、東京市立京橋商業学校を中退して川端画学校に入学して日本画を習いました。

3年程で画学校を卒業してからは、クロッキー研究所に通って裸婦のデッサンなど学びながら、長兄の勧めで菓子店を1年程経営したとされます。そして暫くの後、昭和14年(1939年)には大木実氏の詩集『場末の子』(砂子屋書房)の表紙絵を担当しました。翌年の昭和15年(1940年)になり、26歳の時に「フジヲ」名義で描いた塗絵が子ども達の間で人気を獲得。この時は友人の依頼で描いた塗絵の仕事でしたが、作者名「フジヲ」の名は、夏目漱石の『虞美人草』の“藤尾”に因んだと云います。

またこの時、もともと歌舞伎や日本舞踊が好きであったと云われている喜一は、特に歌舞伎をテーマにした塗絵(ぬりえ)や美人画の体裁をした様な塗絵(ぬりえ)を描き、人気となったとされていますが、確かに彼の子供向け塗絵(ぬりえ)の画風は、その後の全盛期も含めて歌舞伎絵や美人画の様式を踏襲したスタイルですね‥‥。

さて昭和16年(1941年)になると、太平洋戦争の勃発とその激化により塗絵(ぬりえ)の仕事は休止の止む無きとなりました。戦争中の1944年に、妻・まさと結婚し、半年後に招集で海軍省に配属されましたが戦争を生き延び、終戦直後には進駐軍の兵士を相手とした(米兵の妻や恋人の)肖像画の制作で生計を立てました。

これらの肖像画については、合計で100枚位は制作したと云います。しかも日本画の絹本(絹上に描く絵)を学んでいた喜一は、米兵の持参した(素材は絹で作られていた)軍用の落下傘(パラシュート)の上に彼女らの肖像画を描いたとされ、また彼の作風の一端には独特のバタ臭さが見え隠れするとの評価がありますが、それはこの頃の影響ともされています。

やがて昭和22年(1947年)、本名・喜一と同じ「きいち(キイチ/KIICHI)」の名で塗絵(ぬりえ)を発表し、昭和23年(1948年)以降からは、着せ替えの制作も開始します。そして『きいちのぬりえ』とネーミングされた彼の作品は、石川松声堂と山海堂の二社から発売されて大ヒット商品となるのです。しかも袋入りセットが平均で100万組も売れたと云われ、その販売量のピーク時には月販160万~220万組にまで達し、名実共に日本を代表する塗絵(ぬりえ)作家として認められたのです。

以降、『きいちのぬりえ』は大人気となり、昭和30年(1960年)代後半にTVの普及でアニメブームが起こるまで、少女たちの間でこの塗絵人気は続きます。しかしその後、アニメ人気と入れ替わる形で彼の塗絵(ぬりえ)の売れ行きは急激に減じていくのでした。

そこで昭和40年頃までは塗絵(ぬりえ)作家主体の活躍でしたが、以降、少女向け塗絵(ぬりえ)以外に美人画や日本画、掛軸なども手掛けるようになったのです。

だがその後、喜一(きいち)のファンであったグラフィックデザイナーの長谷川義太郎氏(後述の“文化屋雑貨店”オーナーでもある)の働きがけがあったり、昭和53年(1978年)に、“資生堂ザ・ギンザ”ホールのアート・スペースで開催された「キイチのぬりえ展」を切っ掛けに再び世間の脚光を浴びて、個展をはじめとする展覧会が全国各地で開かれ大盛況となって、これらの一連の動きが第2次・喜一(きいち)ブームの火付け役となりました。

そして昭和60年(1985年)前後から晩年にかけては、ひな祭りや羽根つき、七夕など、主に日本の文化や風習などを取り入れた童女の姿を描く『童女百態シリーズ』に取り組み続けたのです。

更に、各企業の宣伝広告のモチーフ(ポスターやカタログ、イメージ画など)として、商品のラベルやパッケージ等にも多くの作品が起用され、上村久留美さんとの共著『わたしのきいち』(小学館)などの著作も出版され、『anan』や『ビックリハウス』などの雑誌に彼の絵が数多く掲載されました。またこの頃の『童女百態シリーズ』以外の代表作は他に、美人画『行灯』、仏画『きいち観音』等があります。

しかし、この第2次・喜一(きいち)ブームは平成元年(1989年)頃には落ち着きを見せますが、以降も時代の変化に沿いながら、今日までその一定の人気は続いているのです。

2015年に閉店した“文化屋雑貨店”(渋谷、後に裏原宿エリアで営業)には、喜一(きいち)が原画を手掛けた雑貨が並び、広く親しまれていましたが、現在でも、東京都荒川区町屋には『きいちのぬりえ』を中心としたコレクションを展示する“ぬりえ美術館”が存在します。

⇒ ぬりえ美術館

彼は特に晩年、更なる女性美を追い求めて童女画や美人画に積極的に取り組んだとされ、生涯現役を貫いて平成17年(2005年)2月24日に91歳で亡くなるまで筆を執り続けました。尚、死因は老衰とされ、埼玉県春日部市内の病院で死去しました。

 

『きいちのぬりえ』は、当初のブーム以来70年を経た現在でも、女性を主体に万人から愛され続けていますが、その理由には、永遠に変わらぬ少女の憧れや夢を描いた作品であると共に、そこに往時、特に昭和のファッションや生活様式等を想起させるレトロな印象が加わり、温かくも懐かしい世界観を創り出していることが挙げられます。

技術的にも我国の塗絵(ぬりえ)界の白眉として、装飾的な中にも儚げで優美な作風により、最も美しい塗絵(ぬりえ)作品の筆頭格とされています。

更に、そこに登場する独創的な少女の容姿やその何気無い仕草は、現在のジャパニーズ・ポップカルチャーの重要な要素である“カワイイ”の一つの原点でもあると評され、世界的にも多くの人々を惹き付けてやみません。

-終-

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