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【伝説の超人列伝】-日本篇- 源頼光と彼の四天王 〈2354JKI58〉

【伝説の超人列伝】と題して、世界各国に伝わる伝説上の超人を紹介していく連載記事を始めます。但し、超人的な能力を備えた存在であることを条件に、その立場に関しては善悪ともに隔たり無く、どの様な所業も不問として記事に取り上げていきたいと考えています。

さてそこで初回として、日本篇として「源頼光と彼の配下の四天王たち」について解説することに致しました。ちなみに今回は皆、正義の味方の面々ですけれど‥‥。

源頼光とは

源頼光

■その出自

源頼光とは、平安時代中期の武将で、土蜘蛛退治や酒呑童子討伐などの説話で知られる人物です。彼の父は、鎮守府将軍であった源満仲、母は嵯峨源氏の近江守であった源俊の女(娘)と伝わります。

満仲の長子で清和源氏の3代目であった頼光は、父の満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を継承し、その子孫は“摂津源氏”と呼ばれました。また異母弟には、大和源氏の祖である源頼親(満仲次男)や後に坂東の地で基盤を確立する源氏の本流/河内源氏の源頼信(満仲三男)などがいますが、他には同腹の武蔵守頼平(満仲四男)がいます。

史実の頼光は(但馬国、伊予国、摂津国などの)受領として蓄えた財により藤原道長に仕え、道長の栄達により頼光も武門の名将“朝家の守護”と呼ばれるようになり、同様に摂関家に仕えて武勇に優れていた弟の頼信と共に、後の清和源氏の興隆の礎を築きました。

寛仁元年(1018年)3月には、大江山夷賊追討の勅命を賜って頼光四天王らと摂津国大江山にて夷賊討伐を行いますが、これに関しては成相寺に頼光が自ら記した追討祈願文書があると伝わり、この行動が後年、大江山の鬼退治、即ち酒呑童子討伐の物語に繋がったのであろうとする説もある様です。

尚、現実の頼光に関しては、武威に秀でた武将というよりは藤原摂関家の家司として能吏に近い貴族的人物だったとの評もあり、また彼は歌人として『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に、合計3首の和歌が入集しています。

ところが一方では、後世の『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』、室町時代になって成立した『御伽草子』などで描かれる、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られる超人的なヒーローでもあるのです。そして『平家物語』でも、当時の武士の中での精兵の代表格として頼光の名が挙げられているなど、この人に武勇的人物像を求める傾向があるのです。

だが実際には本人の武勇というよりは、母の一族・嵯峨源氏の出身であった渡辺綱を筆頭にした頼光四天王などの、英知に優れ剛勇で鳴らした家臣・郎党らの活躍が各種の説話・伝承や物語等に反映しているとも考えられています。

しかし『保元物語』や『梅松論』では、当時の勇者の代表格として同時代の摂津守・藤原保昌が描かれており、酒呑童子討伐の説話も、古い形態では頼光と共に保昌が両大将として描かれており、また保昌を童子退治の主人公とした説話もあります。

※藤原保昌(ふじわら の やすまさ)は、平安時代中期の貴族/武士で源頼光とはライバル関係、藤原南家巨勢磨流、右京大夫・藤原致忠の子です。和泉式部の夫としても有名。また彼も、藤原道長・頼通父子の家司も務めました。頼光の弟である頼親に自身の郎党であった清原致信(清少納言の実兄)を殺害された事件などもありました。彼は武勇に秀で、源頼信・平維衡・平致頼らと共に道長四天王と称されたと伝わります。物語の世界でも大変勇猛な武将であり頼光四天王と比較して独武者として讃えられています。但し、後年になるほど保昌は脇役扱いとなり、お伽草子の『酒呑童子』に至っては頼光四天王と同じく頼光の家来・郎党扱いとなっています。

■土蜘蛛退治

病に伏せている源頼光の館に、空より怪しい化物(実は土蜘蛛の精霊)が現れて彼に襲いかかります。頼光が枕元の名刀『膝丸』で斬りかかるとこの化物は姿を消しましたが、頼光四天王と独武者の平井保昌(保昌一人が家人を従えてとも)がその血の跡を辿り、北野天神宮の裏の古塚の穴中にいた土蜘蛛を鉄の串に刺して退治しました。またこれにより、この時の刀『膝丸』は『蜘蛛切』と呼ばれる事になります。

この話は、『平家物語』剣之巻の名刀『蜘蛛切』の由来話をベースに能楽の鬼退治物『土蜘蛛』となり、そして江戸時代に入ってからは通俗歴史読本の『前太平記』等に受け継がれます。

※ここでの独武者の平井保昌とは、摂津国平井の庄を拠点とした既述の藤原保昌のこと。

また『土蜘蛛草紙』の絵巻でのストーリーは上記とは異なり、ある秋の日、頼光と渡辺綱らの一行が、京の洛外、蓮台野へと行く途中の北野の辺りで髑髏が空を飛んでいく様子を見て不審に思い、その後を追跡します。

左から卜部季武、坂田金時、中央が源頼光、その右が渡辺綱、そして右端が碓井貞光

やがて彼らは神楽岡の朽ちかけた古い屋敷に辿り着きますが、屋敷内では奇怪な老婆をはじめとして次々に異形のものと遭遇し頼光一行は惑わされます。明け方近くに魔性の美女が現われては小さく光り輝く火の玉(白雲)を投げ付けてきたので頼光が斬りつけると、それは白い血の跡を残して消え去ります。またこの時、頼光の太刀は剣先が折れてしまいます。

用心の為に藤などで作った人形を先頭に立てながら件の白い血の跡を辿って行くと西山の洞穴に至り、そこで巨大な化人(化物)が現われました。

この時、何かが飛び出して人形に刺さるのですが、それは先程失った太刀の切っ先でした。この化人と格闘、やがて洞穴から引きずり出してその首を斬ると、それは巨大な土蜘蛛(山蜘蛛)の姿になります。

これを退治するとその中からは数多くの小蜘蛛と髑髏が出てきたました。そこで頼光らはこの怪物の首を埋め、その住処を焼き払って帰京したと云うお話です。

この後の酒呑童子征伐の話では、頼光らの討伐隊は洞窟を抜けて異界入りするのですが、土蜘蛛退治の話では、頼光らは洞窟の中に住むモンスター“土蜘蛛”やその眷属である各種の妖怪等が現世にある頼光の館やあばら家に現れるところを追い払っていきますが、これは謂わば土蜘蛛退治が、酒呑童子とその配下の鬼どもを征伐するというボス戦(本番)に備えた前哨戦との位置付けのイメージだからでしょうか。この活躍で名声を得た頼光らが、次の酒呑童子征伐に派遣されたのも頷けるというものですね‥‥。

※ここでの土蜘蛛とは、奈良時代以前に広く存在していた(中央政権である)大和朝廷に従わない異民族・地方部族のことを指していたとされます。特に彼らは九州地方や奥州に多く存在し、通常は洞穴等に住む未開の人々であり、順次、朝廷勢力に征討されていったのです。つまり土蜘蛛は、特定の部族名等を示すというよりは、もっと漠然とした“異人”といったニュアンス、即ち大和朝廷に従わないアウトサイダー全般を蔑視する言葉だったととらえて良いでしょう。

こうした王権確立の過程での異人退治伝説と、天皇権力下降期の王権説話としての頼光伝説とが結びついて、土蜘蛛退治の物語が成立したとの説が有力です。

更に当然乍ら、源頼光主従にまつわる数々の逸話は、皆が単なる化物退治の御伽話ではなく、中央政権に従わない異民族や地方部族の討伐譚としての趣が色濃く、成敗される側の立場や主張は無視されていることに留意しなければなりません。

■酒呑童子討伐

一条天皇の御代(在位:986年8月1日 ~ 1011年7月16日)、丹波国の大江山(現在京都府福知山市)を棲家とした酒呑童子と呼ばれる鬼の頭目がおり、その鬼神は、金棒や太刀を振るっては、配下の鬼どもと共に夜な夜な京の都を荒らし廻り、美しき若者や姫君たちを次々と誘拐しては、自らに仕えさせたりその血肉を貪り喰っていると云うのです。

またこの酒呑童子は大変凶悪でしたが、嘘や謀を嫌い、その名の通りに酒が大好物という大鬼でした。

こうした鬼たちのあまりの乱暴狼藉な振舞いに手を焼いた朝廷は、帝の命により源頼光とその四天王(及び藤原保昌)を酒呑童子一味の討伐に派遣します。

途中、神仏の協力を得た頼光一行は、山伏に変装して酒呑童子の住処への潜入に成功。鬼の力を封じるという神酒(『神変奇特酒』)呑ませ、身の上話を語りながら気をゆるした酒呑童子の寝首を掻いてこの鬼神を葬り去りました。 

但しこの際、騙し討ちにあったことを知った酒呑童子は、首を切り落とされながらもその頭は頼光に襲い掛かり、「鬼に横道なし」と激しく罵ったとされます。

更に討伐隊の面々は、この時取り逃がした茨木童子と名乗る鬼を除いては、酒呑童子の部下の四天王(星熊童子、熊童子、虎熊童子、金童子)と呼ばれた鬼ども等を残らず退治して、酒呑童子率いる悪逆非道な一味の征伐を無事終えることが出来、その後、頼光らは討ち取った酒呑童子の首と共に、生き残った姫君らを伴い都へと凱旋します‥‥。

■軍事貴族の代表

さて、これは筆者の仮説ではありますが、実際に存在した酒呑童子のモデルとなる人物については、史上稀に見る凶悪犯であり、統率力の高い盗賊・犯罪集団の頭目だったのでしょう。そして大の酒好きが昂じて、こうした名前で呼ばれることになったのだと思います。ちなみに酒呑童子に関しては、この連載の他の記事で別途取り上げる予定なので、詳しくはそちらで解説致します‥‥。

一方で、討伐する側の源頼光ら一行は、当時の典型的な軍事貴族の集団と云えるでしょう。そしてこの軍事貴族とは、平安時代に成立した軍事に特化した中下級の貴族を指していました。

平安時代も中頃以降は徐々に治安が悪化しており、都周辺でも凶暴な盗賊などが跋扈していました。貴族の中でも腕に覚えがあって武力に長じた者が、これらの群盗などの討伐を命じられたり、治安維持活動の任を得て武装組織化していきますが、これが武士集団発生の原因の一つとも云われる軍事(武家)貴族の成り立ちです。

彼らは主に下級貴族の出でありましたが、承平天慶の乱の鎮圧・追討に功があった者の中から、やがて平安中期以降、10世紀の中頃には軍事に特化した家系、すなわち“兵の家(つわもののいえ)して認知される様になるのです。

※寛平・延喜年間(9世紀末期から10世紀初期)になると、朝廷は大規模な盗賊集団を積極的に鎮圧するべく「追捕官符」を発出すると共に、国単位で押領使・追捕使を任命して、国内の武勇に優れた者を国衙・押領使・追捕使の指揮下に入ることを義務づけます。

軍事貴族の中でも高位の正四位まで昇ったのは、清和天皇の子孫である源頼光や弟の源頼信などの清和源氏の6名と桓武平氏の2名のみでしたから、まさしく頼光が活躍した当時は、清和源氏が武家の棟梁として認識されていたのです。

何れにしても、朝廷と摂関家の命に応じて蛮徒や叛徒、群盗など(そして時には対抗勢力)を討伐する武士として行動することとなった正義の士!? である頼光ら軍事貴族に対して、その対極の立場にあった凶悪な犯罪者集団・盗賊たちを、物語では単純に人知を超えた怪異な者、例えば鬼や土蜘蛛、妖術使い、山姥などと比喩・表現したのは当然の成り行きだという説は頷けます。

但し、物語の本質はそう簡単なものではなさそうです。土蜘蛛退治の話とも重なりますが、諸書における酒呑童子とその配下の鬼たちの出自や、彼らが討伐された真の理由にはかなり深い背景がありそうです‥‥。

しかし酒呑童子に関しては、この連載別稿で扱う予定であり、詳細はそちらで述べたいと思いますので、本稿ではこの辺で止め置きます。そしてその正体やルーツについての考察(スサノオ及び出雲族/縄文系民族説や鉱山技術者集団である“タタラ”製鉄の民/都から排除された山人、西洋系の漂着者説などの珍説)もそちらの記事で紹介する予定です‥‥。

頼光四天王とは

“頼光四天王”とは、源頼光に従った4人の部下のことです。そしてこの四天王に該当する人物は、渡辺綱と坂田金時、卜部季武、そして碓井貞光となります。

彼らは主君である頼光と同様に、後世に成立した『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』、『古今著聞集』といった説話集、そして各種の御伽草子などで語られる多くの怪物討伐や怪奇譚での活躍が有名ですね。

個人で活躍する話としては、四天王の筆頭とされる渡辺綱が京都の一条戻り橋の上で鬼の腕を切り落とした件が有名ですが、より世間に広く知られた話としては坂田金時の幼少時代を描いた童話『金太郎』があり、金時はあの金太郎の成人した姿なのです。一方で、卜部季武や碓井貞光に関してはそれほど著名な話は伝わっておらず、前者2名と比べて一般的な知名度は低いかも知れません。

■渡辺綱

〈その出自

渡辺綱

源頼光の四天王の筆頭とされる渡辺綱は実在の人物で、平安時代中期(945年〜1025年頃)の武将で光源氏のモデルとして知られる嵯峨源氏(河原大納言)源融の子孫とされ、父は武蔵国の住人で武蔵権介だった嵯峨源氏の(箕田)宛(あつる)。その為、渡辺綱の正式な名は源綱といい、通称は源次とされます。この為に彼の出生地は、武蔵国足立郡箕田郷(現埼玉県鴻巣市箕田)とも、他には今の東京都港区三田の説もあります。

後に多田源氏源満仲の妹婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の生地摂津国西成郡渡辺村に移住して母方の姓である渡辺を名乗ったと伝わりますが、これが全国の渡辺氏の祖であるとの説に繋がります。ちなみに、彼の官位は内舎人でしたから、渡辺舎人綱との名乗りもあります。

養父の源敦が源満仲の郎党に推挙、満仲の死後は源頼光に仕えました(異説在り)。その子孫は渡辺党と呼ばれ、内裏警護に従事する滝口武者として、また摂津国の武士団として住吉(住之江)の海(大阪湾)を本拠地として瀬戸内海の水軍を統轄し、源平の争乱から南北朝にかけて活躍しました。更に、九州の水軍、松浦党の祖の松浦久もまた渡辺氏の出身とされています。

源頼光は正暦元年(990年)に肥前守に任ぜられ、綱を連れて松浦郡に下向し筒井村に居住したとされるが、正暦五年(995年)に帰洛しています。この間に綱は奈古屋で授(源次授、渡辺授)という男子をもうけ、地名から奈古屋授と名づけました。延久元年(1069年)になると、この授の子の久が松浦郡宇野御厨の荘官となり、以後、松浦久として検非違使に補され、従五位に叙されて肥前・松浦氏の開祖となります。

※代々、渡辺氏の嫡流や松浦氏の嫡流は源次の通称を名乗るとされます。

〈その逸話〉

京都の一条戻り橋の上で、鬼の腕を切り落とした話が有名ですが、後日、綱はこれも北野天満宮の大神のおかげと神恩を感謝し、石燈籠を寄進したとされます。

さて、屋代本の平家物語“剣”の巻では、頼光から用事を託された綱は一条大宮に向かいます。深夜のことでもあり、用心の為に源家の名剣『髭切』を供され、馬上にて赴きました。そしてその帰り、一条堀川にかかる戻橋の橋の東端で、若い女房が一人で南方へ向かうのに綱は出会います。

女房は綱を見て「五条わたりのものです、送ってください」と頼みました。綱はその女房を馬に乗せて南側へ送ろうと馬を走らせますが、女は今度は都の外に送って欲しいと云い出しました。

綱は「どこへでも、行きたいところへ送りましょう」と答えたところ、その女は途端に形相を変えて、恐ろしい鬼の姿となり、「わが行くところは、愛宕山ぞ」と言うと、綱の髻(もとどり)を掴んで、西北へと飛び上がりました。

その時、綱は件の髭切の太刀を抜き放ちこの鬼の腕を切り払うと、その腕は北野社の廻廊の屋根に落ちましたが、鬼は片腕を失いながらも愛宕山の方向へと飛び去りました。

この後、綱は頼光のところへ鬼の腕を持ち帰りました。頼光が安倍晴明にこの出来事を占わせると、結果は大凶と出ます。そこで綱は七日間にわたり慎み深い生活を送る事となり、切り落とした鬼の腕を櫃に封じて周囲では仁王経が読誦されることとなりました。

しかしその最終日、綱の伯母で養母にあたる者が上洛して来た時、綱はこの伯母に一条戻り橋での経緯を話し、鬼の片腕を見せてしまいます。ところがこの伯母は腕を切り落とされた鬼の変化した姿だったのです。

そして突然、鬼の姿に戻った怪物は、「これは我の腕だ、返せ」と叫ぶなり腕を奪っては、破風を蹴破って屋敷の外へと飛び去って行きました‥‥。

以上が、渡辺綱の一条戻橋に関するストーリーですが、平家物語の別の部分では、この鬼は妬みから貴船明神の力を得て鬼女となった、宇治の橋姫であったと伝えています。

※この話が、渡辺党の住居は破風を有しない東屋で主である由来ともされています。

※この話の鬼は本来は水神であり、河童(カッパ)が馬を水に引き込もうとして腕を切り落とされた末に、それを奪い返しに来る物語であったものが、鬼女、して鬼へと変化していったとも考えられています。

また綱は、羅生門に住まう鬼を退治したとの逸話が『今昔物語』等にあり、そこでも彼は名刀『髭切(鬼切)』を所持していたとされますが、その内容は一条戻橋でのエピソードに酷似しており、後に触れる卜部季武の肝試し説話との類似性もあります。

※『髭切』は、源氏に伝わる太刀で極めつけの名刀のひとつですが、作刀者については様々な伝承があり、判然としません。名その由来は、罪人を試し切りした際に、髭も一緒に切った事とされますが、後に渡辺綱が一条戻橋で鬼の腕を切り、その際に名を『鬼切』と改めたというのです。但し、源氏伝説の名剣『髭切』と、現存する『鬼切安綱は別物であるとの説が有力視されています。

渡辺綱と源頼光

こうして鬼退治で大活躍した渡辺綱の子孫である世間の“渡辺さん”たちは、節分の時、豆撒きをしなくていいとされているのでした(笑)。

但し、大江山の鬼退治の件では、綱は茨木童子に逃げられるという失態を犯しています。茨木童子は酒呑童子の討たれる姿を見て、これは敵わないと退却を決意し、唯一逃亡に成功したのです。

尚、この茨木童子が、一条戻橋や羅生門で綱と戦った鬼と同じとされる説話もあるのですが、本来は別々の鬼であると解説する資料もあります。

※酒呑童子の家来でNO.2だった茨木童子が、一条戻橋で美女の扮装をして渡辺綱を油断させ、奇襲をしかけますが、結局は綱に腕を切り落とされて負けてしまいます。しかしこの後、茨木童子は偽計(伯母に化ける策)を用いて綱から自分の腕を取り戻すことに成功した、とする話もあるのです。

尚、茨木童子に関しては、詳しく語ると一つの記事でも余りある内容なので、本稿では以上までとさせて頂きます‥‥。

※能楽『羅生門』は、平家物語をベースに舞台を一条戻橋から羅城門に変更して創作されたもので、鬼が腕を取り返しに来る話は歌舞伎『茨木』の内容と同一です。この為、別々の鬼である羅城門の鬼を“茨木童子”を混同している人が多いと云うのです(諸説あり)

■坂田金時

〈その出自と逸話

坂田金時

源頼光の四天王の一人である坂田金時(坂田靭鞍負公時)は、童話『(足柄山の)金太郎』に出てくる金太郎の成人した姿です。

一説(静岡県駿東郡小山町の『金時神社』の記録)には、彫物師十兵衛の娘、八重桐(やえぎり)が京にのぼった時、宮中に仕えていた坂田蔵人と結ばれ懐妊した子供と記されています。やがて金太郎は天暦10年(956年)5月に誕生、坂田が亡くなったので八重桐は金太郎を故郷の相模国足柄山で育てることにしましたが、成長した金太郎は足柄山で熊と相撲をとるなど怪力の持ち主となり、また母親に孝行する元気で優しい子供に育ったのです。

その後の天延4年3月21日(976年4月28日)、足柄峠を通りかかった(逼塞・隠遁していた時とも)源頼光にその力量を認められて家来となり、名も坂田金時と改め、以後は京に登って“頼光四天王の一人となります‥‥。

※源頼光に見いだされた時点で21歳でしたが、その時点でも童話で皆がよく知る“おかっぱ”頭のままであったとされます。

また、他にも幾つもの誕生譚(母親が山姥で、雷神の子供を孕んで産まれてきたとするものや、金時山の頂上で赤い龍が八重桐に授けた子というもの等)がありますが、童話での金太郎及び坂田金時の皮膚が赤いのは、父が赤龍(雷神の化身)である事が原因とされています。この為、手に持つ武器は雷神が使う鉞でした。

※浄瑠璃の『嫗山姥(こもちやまんば)』(近松門左衛門の作)などの話では、源頼光が東国の賊徒を平定する為、卜部季武を従えて信州明呂山に差し掛かったところ、坂田時之の妻と一子の“怪童丸”と出会います。山姥は頼光主従に襲い掛かりますが、逆に彼らの武勇の前に屈し、我が身を差し出して子供の“怪童丸”の助命を願いました。頼光は母の情に感じ入りその願いを聞き入れて、“怪童丸”(後の坂田金時)を家来にするのでした‥‥、となります。

※“酒呑童子”征伐の際には、坂田金時は笈に隠して持ち込んだ『なみきり』という名の太刀を所持していました。歌舞伎『天竺徳兵衛韓噺に登場する『波切丸』とは別物でしょうが、豊臣秀吉による小田原征伐の際、忍城攻防戦で甲斐姫が成田家に伝わる名刀『浪切』を所持して奮戦していますが、この刀も同名異物でしょうね。

その後の“頼光四天王”として活躍は重複を避ける為に省きますが、金時神社による「金太郎」伝説では、坂田金時は寛弘8年12月15日(1012年1月11日)に九州の賊を征伐する目的で筑紫国へ向かう途中、作州路美作の勝田壮(現在の岡山県勝央町)で重い熱病となり55歳で亡くなったとされます。

勝田壮の人々は彼を慕い、倶利加羅(くりがら、剛勇の意)神社(現、栗柄神社)を建てて葬ったと伝わります。

坂田金時のモデル〉

源頼光と坂田金時

この様に彼はほぼ伝説上の人物なのですが、どうもそのモデルとなったのは平安時代の近衛府で舎人や番長/相撲使などを歴任し、近衛府官人“第一の者”と言われた下野毛公時(しもつけの きんとき)の様です。

彼は下毛野公友を父に、尾張兼時の娘を母はとして長保二年に生まれました。藤原道長の随身(警護役)ともなっていたとされますから、ここで源頼光との繋がりがありそうですね。また正確な事蹟は未詳乍ら、各地に出生の伝説や逸話が残っています。

※こればかりは後年のこじつけですが、彼の名(公時)の由来は、長く公(頼光)に仕える時を待っていたという逸話もあります。

※下毛野氏は飛鳥時代に遡る豪族で、『日本書紀』によれば崇神天皇の皇子、豊城命の裔とされます。平安時代においては、摂関家に仕える有力家人でした。

※藤原道長が著わしたとされる『御堂関白記』では幾度か下野毛公時の名が言及され、彼が道長に重用されていたことが分かります。

※同じく『御堂関白記』によれば、下毛野公時は寛仁元年1017年)に18歳で九州の筑紫で死亡したとされます。また同書の“寛仁元年八月廿四日の条”には、「従帥許送害、開見書云、相撲使公時死去由、件男随身也、只今両府者中第一者也、日来依此云々、憐者甚多」とあり、道長は「左右近衛府の第一の者」として公時の死を悼んでいます。

坂田金時は「金時豆(きんときまめ)」の名前の由来でもあり、更に彼の息子の坂田金平は「きんぴらゴボウ」の名の由来として知られています。

■卜部季武

〈その出自

卜部季武

源頼光の四天王の一人・卜部六郎季武(平季武)は、平安時代中期の武将です。父は卜部兵庫季国で、母は三島の卜部尼公、父の季国は源満仲に仕えて源頼光とその母を救った功績で、季武も頼光に仕えることとなりました。また官途名/受領名は主馬介とも。

足柄山を訪れた時に頼光の供侍であった彼が、坂田金時(“金太郎”)の力を試す為に最初に戦った人物という事になります。

尚、上記の様に父を卜部季国とする説が多いのですが、異説には、彼の父を平季国(源満仲/多田満仲とその子の頼光の老臣)、母を卜部尼公(同じく源満仲の家臣である卜部兵庫の娘)とする記述もある事から、季武も渡辺綱と同じく母方の姓を名乗っていたとも考えられます。また卜部氏には諸流ありますが、季武の母系の卜部氏は鹿島神官家に連なるとする説もあります。

他の有力な説としては、兵庫県宝塚市にある松尾神社によると、この神社を創建した浦辺太郎坂上季猛こそが六郎季武だとしています。この場合は、「浦辺」が「卜部」に、「季猛」が「季武」に変化したとの解釈でしょうか。

〈その逸話〉

『古今著聞集』には、『源頼光の郎等季武が従者季武の矢先を外す事【季武が従者、主の矢先をはづすこと】』(“腕前と心構え”)という説話が収録されています。そこには当代随一の弓の名手と謳われた季武が、三段(約30m)離れて立つ自らの家来を射当てることが出来なかった理由が語られていますが、その家来の道理ある言葉を聞いた彼は何故的を外したのかを納得するのでした‥‥。

※『古今著聞集』は、鎌倉時代中期の説話集で橘成季の編とされる。『今昔物語集』に次ぐ大部の説話集(20巻700話余り)。その内容は貴族社会の逸話・奇異談など多岐多彩にわたります。また王朝思慕の傾向が強い尚古的なもの以外にも、当時の一般的な社会や風俗を伝える説話なども多いとされます。

※この説話に登場する季武の武勇に優れた家来は、「人間の体は太いと言っても一尺には充たないものです。あなた様は、その真ん中を狙って射かけます。(しかし私は)弦の音を聞いてから五寸は避けることが出来ます。だから(体に当てようと思ったならば)、そのつもりで(思慮深く)射なくてはならないのですよ」と言ったとされます(『古今著聞集』347段、巻09)

また『今昔物語集』には、『頼光の郎等平季武、産女にあひし話』があります。暗夜に季武が馬で川を渡っていると、川の中程に産女がいて「これを抱け」と言って赤子を渡します。季武は赤子を受け取り、岸へ向かいました。産女は「子を返せ」と言って追ってくるが、季武は取り合わずに陸へ上がりました。館へ帰って見ると、その赤子は木の葉に変じていたと云います。

ちなみにこの話の発端は、頼光郎党の間での肝試し(幽霊に惑わされずに川を渡れるか? )だとか‥‥。

尚、卜部季武が御伽草子(慶大本)の中で“酒呑童子”退治の時、笈に隠して持って行った太刀は、平家に伝わる名刀『あさまる』とされています。備前(もしくは肥前)吉岡の刀鍛冶・守恒の作刀となっていますが、関連性を抱かせる悪七兵衛/藤原(平)景清が所持した『あざ丸(痣丸)』は、作者は助平や包平、正恒など諸説があります。

■碓井貞光

〈その出自

源頼光と碓井貞光

碓井荒二郎貞光は平安時代中期の武将で、その出自に関しては平氏、橘氏など諸説があり、従来は碓井という名に関連して、現在の長野県と群馬県の県境にある碓氷峠周辺を出身地とする説が多かった様です。

貞光の父は靱負充・橘貞兼という北面の武士でしたが、勅勘によって配流されて、碓氷峠に隠棲していたと云います。

しかし一説には彼が平貞道であるとし、父は平良文(村岡五郎)とも伝わります。更に平忠通はこの貞光(貞通)の子で、この人物が相模三浦氏・鎌倉氏らの先祖になったとされます。その為、貞光の生国に関しても相模国の碓氷峠付近となり、“金太郎”の逸話とも地縁的に近い事から、現在では碓井貞光は足柄下郡箱根町付近にある碓氷峠近辺で生まれたとする説が有力の様です。

※源頼朝の宿老であった三浦荒次郎義澄や戦国期に活躍した三浦荒次郎義意の様に、三浦氏は仮名を荒次郎と名乗る者が多かったとされます。また、相模国の鎌倉党の家系図(系図上貞通)に見られる事からも、その出自は相模説が有力とも。

※碓井貞光は、『今昔物語』には源頼光の三人の家来の一人として、その名が記されていますが、何故か“頼光四天王”の筆頭渡辺綱の名前は記載されていません。

〈その逸話〉

碓氷貞光は、幼名を荒童子”または“荒太郎”と呼ばれていました。その名の通り、幼い頃から大変な力自慢でしたが、毎日、峠にある大きな石を持ち上げる鍛錬をしていました。最初の内、石は微動だにしませんでしたが、やがて日々の努力によりその巨石を持ち上げられる程の剛力となります。そこでこの石を、“貞光力試しの石”と呼ぶのです。

※碓氷峠入口付近左側の、碓氷峠熊野神社の境外社である碓井貞光神社(霊社)の右側土手下に、この“貞光力試しの石”はあります。

成人した彼は、身の丈七尺の大男となり、戸隠神社のお告げにより頼光に仕えたとされますが、異説には、崖下に転落した牛を軽々と肩に背負って断崖を登って来た姿を見て驚いた武士の推挙で、頼光の家臣となったとも。

※足柄山の“金太郎”の力を試す為に、卜部季武の次に戦った人物とされていますが、童話『金太郎』で描かれる彼は、樵となって頼光の家来に相応しい豪傑を探索する途中で足柄山の“金太郎”を見い出して、彼を主の頼光の元へと連れ帰るという役割を与えられています。

他には『四万温泉』発見に関する逸話などがあります。越後から上野へと向かう道中、野宿する事になった貞光が読経をしていると「汝が読経の誠心に感じて四万の病悩を治する霊泉を授ける。我はこの山の神霊なり」との声を聞きます。そこで貞光が周囲を調べたところ涌泉が見つかり、これが『四万温泉』の発祥となったとされるのです。

※『四万温泉』は永延年間の発見、碓井貞光が日向守であったことから、四万温泉の開湯地を特に日向見温泉とも呼びます。またその温泉名は、貞光が夢の中で「四万の病を治す霊泉」(御夢想の湯)と告げられたことに因んで「四万温泉」となりました。

卜部季武と碓井貞光

ある時、貞光が帰郷すると(上信境の)碓氷峠に巨大な毒を吐く大蛇が住み着き、住民たちを苦しめていました。そこで貞光は、十一面観世音菩薩の加護を受けた宝鎌を振るってその大蛇を滅ぼします。

そしてこの時に観世音菩薩が現れた霊地を『大法師の宮』、退治に使用した鎌を祀ったのが『鎌の明神』となり、貞光はここに碓氷山定光院金剛寺を建立・開基し、そこに観音菩薩と大蛇の頭骨を祀ったとされます。更に、戦いの最中に貞光が飛び移った巌は刎石峠(はねいしとおげ)』と名付けられました。

また、碓氷貞光に角を切り落とされた鬼が逃げ込んだという伝説がある山があり、この『角落山(つのおちやま)は、群馬百名山の一つで浅間山の東方に広がる“角落山塊”の中心で、三角錐の特徴的な山容をしている、鬼が逃げ込むのに相応しい急峻な岩山です。

最後に、御伽草子(慶大本)“酒呑童子”退治の時、碓井貞光が笈に隠して持って行ったとされる太刀が『石切丸』とされていますが、これは悪源太義平の『石切(丸)』との(敢えての)混同でしょうか‥‥。

ちなみに何故、鬼たちを童子と呼ぶのかは、鬼が子供だと言う意味ではなく、彼らが髷(まげ)を結っていなかったからとの事。そう聞くと、恐ろしい鬼たちも何となくカワイイですよね‥‥。しかしそのココロ(本当の意味)は、当時の人にとって髷なしが大変異様だったからであり、この姿が「人間の常識や倫理観が通じない相手」でまさしく「人外のもの」の象徴だったからとされています!!

-終-

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