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【江戸時代を学ぶ】 関東取締出役(八州廻り)の実像 中編 〈25JKI00〉

こうして文化2年(1805年)に出役が設置されるのだが、だが当初の職務は公事吟味業務の促進・円滑化が目的であり、積極的に治安の取締りや警察業務に関与するものではなかったとされる(異説あり)。

当時、代官所管轄下の犯罪や訴訟事件に関しては代官所の手付(手附)・手代が事件現場に赴いて吟味(捜査)し、その口書(調書)に基づき評定所で裁かれることも多かった。そして評定所での裁きを実質的に担ったのは勘定所から出向していた評定所留役であった。

しかし代官所の手付(手附)・手代たちの捜査能力の低さ(または、やる気の無さ)や口書(調書)の不備や提出の遅滞により公事方の業務は大幅に停滞し、また評定所留役にも大きな負担を強いていた。そこで関東地方(関八州)の天領(幕府直轄領)等の在方取締りを専管とする役目(出役のこと)を新たに設置し、一般の代官所属僚を外してこの専管職に吟味業務を移管、口書の作成までを実施させることで、評定所における裁判・訴訟事務の速度upと効率化を狙ったのだとされる

※評定所留役(ひょうじょうしょとめやく)とは、江戸幕府の役職のひとつ。評定所の書記官で、勘定所から出向した役人である勘定がこの任に就いた。勘定奉行支配で、150俵20人扶持、御目見以上で布衣以下の役職。評定所(江戸幕府の最高裁判所にあたる機関)における実質的な審理は法令や過去の判例を熟知していた留役が行い、審議する事件の事実関係の下調べ・法令や判例の調査・書類の作成・容疑者への尋問や審議を担当した。また寺社奉行所にも出向して吟味役調役となったが、町奉行所では吟味方与力がこの職務を担当した。現代の欧州大陸系の予審判事の様な職務とも云えるかも知れない。

※関東取締出役の設置には、評定所留役の羽田藤右衛門保定の具申が深く関与したとする説もある様だ。藤右衛門は水野為長の作成した天明初年~寛政中期(1781年~1793年)の風聞書『よしの冊子』にも、賄賂を厳しく断罪する姿が報告されている。ちなみに『よしの冊子』とは、隠密によって情報収集した各種世情を老中・松平定信に伝える為の風聞レポート集で、全部で200冊程度あったとされる。

※関東取締出役設置の発令文書については、文化2年(1805年)5月に老中の牧野備前守忠精が発した「別紙書付」がそれにあたるとの説もある。

但し上記の様な背景から、この当時の出役には犯罪者の追跡や捕縛・逮捕といった任務や軽犯罪に関する処罰の裁量権といったものは与えられていなかったとされている。今で云う警察官に対する検察官(留役が検察官で、出役は検察事務官とした方がより正しいかも知れない)の様な立場で、出役は逮捕後の訴訟処理を円滑に進める為に存在したのではなかろうか。

こうした説では、設置当初の関東取締出役に関して、犯罪者を「犬牙錯綜」の領地・領域を超えて積極的に追捕していくのでなく、巡回・廻村における各地区の百姓たちへの教諭活動(後述)に重点を置いていたとしている。彼らは無宿に対峙した場合でも、単純に捕縛することが直接の目的ではなく、教諭によって『改心帰農』させることが重要な役目であったと考える識者もいる様だ。また当時は関東取締出役という名称はさほど使われておらず、更に、後年の様な出役と村々との直接的な繋がりは薄かったとされる。

未だこの頃は、幕府は関東地方の代官たちと連動する形で出役が活動することを想定しており、(重複するが)出役自身が領域を問わない巡察による取締りで凶暴・凶悪な犯罪者を自ら捕縛したり、処罰する様な積極的な警察行動力を有していた訳ではないとも云われる(異説もあり)。

だが筆者としては、教諭重点の学説を一方的に支持するものではなく、そもそも関東取締出役は法に背く無宿・悪党らを取締る役目として成立したのであり、法支配による社会秩序の維持と(管轄領域の区別を持たない)広域な警察活動の執行に加えて、日常的な廻村の中で関東の地方農村部の庶民を教育・指導する教諭支配の執行と云う、二つの支配方式の併存を担う存在であったと考えているが、この点に関する考察については、後程、再び触れることにしよう‥‥。

 

2. 文化9年以降、並びに『長脇差禁令』について

しかし文化期(~1818年)も末期となると、関東地方でも無宿・博徒や浪人などからなる悪党集団の徘徊が一層増加し、治安は以前にも増して悪化していき、出役の性格も具体的な警察活動の比重がより高まっていったと考えられる。そしてその後の文政・天保期(1818年~1845年)頃の関東取締出役については、“文政改革の影響と改革組合村の存在が大変大きく作用したのだった(後述)。

さて文政も8年~9年(1826年)頃になると、犯罪の多発に比べて関東取締出役の人数は足りなく、また捕縛した後の犯人の処遇に関する現地の町村の負担も限界に達しており、出役の側にも地域の体制にも何らかの改革が必要と考えられていた。

文政9年の3月には、勘定奉行は極度の治安の悪化を理由として、関東取締出役に対して全員が巡察に出向く様に命じる。5月には、60日間の期限で臨時取締出役が3名増員されている。更に、関東地方(関八州)の個別領主(大名・旗本・寺社etc.)へも必要に応じて応援要請が可能となる様に通達が廻され、加えて犯罪者の捕縛には鉄砲の使用と切捨御免が許可された。

だがこの時期に至っては、長脇差や槍・鉄砲を所持しては在所毎に乱暴狼藉を働く無宿の群れがあったとされ、これに対抗して一般の農民・町人の側も武装したことから、一層治安が悪化したとされる。

こうした状況下、当時の勘定奉行は、長脇差を携帯し且つ悪事を働いた者を「当分之内、一般ニ死刑」にすることを求めたのだった。この提案は(一部の老中からの慎重論もあった末に)結果的に幕閣に認められるが、その理由としては、完璧な現行犯逮捕か事前から厳重にマークしていた者でない限り重犯罪を犯した者であることの特定や立証が難しく、またその為の(現代の様な科学捜査力や組織も無いことから)吟味力、即ち捜査能力やそれらの体制には著しい限界があったからである。

そして同年9月、遂に長脇差を帯びて歩行する者を悪事の有無・無宿有宿の区別なく捕縛して、死罪などの重科に処すべきことを旨とする『長脇差禁令が触れられた(「御触書 天保集成」など)。

※長脇差は度々禁令の対象となり、寛政2年(1790年)には1尺8寸(55cm弱)以上のものが禁止とされ、寛政10年(1798年)には1尺5寸以上は取締りの対象となった。

当時の幕府はこうした該当者を厳罰に処せば、多くの無宿どもは「恐怖改心」して、無宿予備軍の百姓等にも大きな威圧効果が期待出来ると考えたのである。つまり対象は治安悪化の元凶である無宿や博徒・浪人らだけではなく、一般の農民(百姓)や町人も含まれていたのであった。

※現実には一旦、老中から再評議を指示する「御書取」が下された。長脇差を携帯しているだけで画一的な厳罰が適用されるのは「不穏」というのがその理由である。近年の治安悪化を詳述する「別紙」を添えて再度審議を願い出た結果、文政9年9月、『長脇差禁令』が発令された。

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