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【江戸時代を学ぶ】 関東取締出役(八州廻り)の実像 中編 〈25JKI00〉

6.  改革組合村について

改革組合村の編成をめぐっては、既に述べた通り文政10年(1827年)3・4月頃以降、関東取締出役が組合村の結成を指示して廻村、組合村が直ちに編成出来ない場合については、一旦、議定書の雛形(原案)を町や村に提示してそのまま廻村を続けた。また提示された原案が村々の側にとって受け入れ難し・不都合であると認識された場合、後日、出役と村々の間で交渉が持たれたとも云う。

その結果、対象の町や村々の間で組合村編成完了の遅速が発生していく。この地域差を鑑みた幕府は改革組合村の編成条件を緩和することに決し、出役も廻村活動を強化してより改革組合村の編成作業を推し進めることになる。

こうして文政12年(1829年)2月、組合村結成の督促と組合村結成の再触(組合村結成条件の緩和)が出され、出役は文政12年から翌13年にかけて再び廻村しながら教諭、並びに幕府の触の伝達を実施して村々から請書を提出させたのである。但し、これが各村における議定書提出日時の不統一の原因となった。

さて改革組合村の具体的は編成内容としては、数ヶ所(通常は3~5ヶ村)の村を集めて小組合とし、10ヶ所前後の小組合からなる大組合(平均で40~50ヶ村で構成)を作り、取締組合の一単位とした。大組合を構成する町村の中でも石高が高く交通の要衝等の条件を兼ね備えた場所を寄場もしくは親村に指定してこれを大組合の拠点箇所とし、その傘下の組合の集合体を寄場組合とも称した。

小組合には小組合村の名主・村役人から選ばれた小惣代が、同じく小惣代から選ばれた大惣代が大組合を、そして取締組合の中心となる寄場・親村には寄場役人を配置して、各規模の組合村の運営を担わせた。

※寄場では、管轄の組合村全体の事務などを統轄し、また犯罪者を臨時に収容する収監施設を準備した。

更に大組合は関東取締出役の直接指揮下に置かれ、関東取締出役 ⇒ 寄場・親村(寄場役人)⇒ 大組合(大惣代)⇒小組合(小惣代)⇒ 村々(名主・村役人)という強力な指揮命令系統が確立された。そしてこの組合村の編成完了で、当時の幕府が目指した“文政改革”の触書にある各種取締りの内容や制限・規制条項の徹底が可能となり、関東地方の農村に対する治安維持能力の向上と共に民政面での支配力強化も達成されたのである。

但し、幕府の意図は当初から改革組合村の成立の結果を見越してのものではなく、その整備と共に関東取締出役の活動も変化したと見るべきである、との意見もある様だ。

※組合村とは、江戸時代を通じて村々が連合して結成した組合のことである。例えば、用水組合や山野利用組合、貢納・夫役に対応して組織された代官所毎の組合や助郷組合、鷹場費用負担組合(霞組合)などがその代表例である。しかしこれらを基盤としながらも、“文政改革”による治安維持の強化を目指したタイプの改革組合村や、地域産業の発展・振興を課題とした組合村が各地で結成され始める。こうした組合村は惣代を選出し議定を定めるなど、総合的な地域の管理秩序の構築を目的とする点で、従来のそれとは性格を異にしたものであった。

※出役が文政13年(1830年)前後の破戒僧の取締りに関与しているとの説があるが、筆者の調査では詳細は不明であった。同時期、大坂東町奉行所与力であった大塩平八郎も、警告を無視して悪行を続けた破戒僧数十名を遠島の刑に処している(大坂・一心寺破戒僧事件など)。また同じ頃、京都でも知恩院破戒僧事件が発生していた。更に同年には江戸の増上寺でも“香衣(こうえ)騒動”が勃発している。

 

7. “文政改革”と身分統制

“文政改革”を起点とする関東取締出役と改革組合村による治安維持・法支配体制の強化・確立については、本来の幕府側の政策的な位置付けと地域社会側の実態認識には隔たりがあったかも知れないとされている。

それは、この時の改革組合村の編成に関しては、地域社会の側から見れば現実的で有効な犯罪対策の一手段に過ぎなかったが、実は従来、警察的機能の充実という観点から捉えられてきた“文政改革”の政策意図は、改革組合村の結んだ議定書の内容・構造から、それを幕府の身分統制を目的とした政策と理解する向きも多いのだ。

“文政改革”の議定書は、前半5ヶ条の基本法令の請書部分と、それを基に作られた後半40ヶ条の議定部分から構成されている。この前半の基本法令は、前年の『長脇差禁令』に対する請書と考えられ、既述の様に『長脇差禁令』が一種の身分統制令であることを踏まえると、即ち“文政改革”の真の政策意図は身分統制であるとされるのだ。

だが当時の地域社会の火急の要望が治安警察力の向上であったとすると、要するに改革組合村における出役の治安警察活動に対する自主的な支援は、地域社会の自律性の表現であったと理解しても差し支えない。つまり“文政改革”とは、関八州の農民たちの身分統制を目指す幕府と、領主・領域を超えた治安警察の構築を何としても実現したい地域側の要望を両立する為の妥協の産物だったとの説も有力なのである。

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