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【江戸時代を学ぶ】 関東取締出役(八州廻り)の実像 後編 〈25JKI00〉

しかし同時期、関八州においては博徒の横行・悪行だけではなく、年貢増税などに苦しむ農村の怒りが領国の垣根を越えて広がり、天保期では大飢饉の影響から、全国的にも天保2年(1831年)長州藩内における“防長大一揆(“天保大一揆とも)はじめとして大規模な騒動が拡がっていった。天保7年(1836年)の“甲斐郡内騒動”も甲府勤番や代官所の力では抑えられない規模の一揆となっている。それ以降、天保9年(1838年)の佐渡の天領で発生した“佐渡一国一揆”(“佐渡一国騒動”とも)や、天保13年(1842年)の“近江天保一揆”など、その規模は益々大きくなっていった。

江戸時代には何度も大規模な飢饉があって多くの人々が苦しめられたが、中でも大きな飢饉は寛永や延宝、享保、そして天明から天保にかけた時代に発生した。それらは(平均化すると)約40年ないし50年に一度の割合となるが、天保7年(1836年)から同8年(1837年)に起きた飢饉は特に悲惨であったとされる。またこれらの大飢饉の発生原因は、風水害や冷害に旱魃(かんばつ)などの自然災害による農業生産力の低下と、当時の政治や社会情勢、経済の構造上の問題点などが複雑に絡み合った中で起因したと考えられている。

※“甲斐郡内騒動”とは、天保7年(1836年)に甲斐国郡内地方(都留郡一帯)で始まり、甲斐国全体に波及した百姓一揆のこと。“”甲斐一国一揆・“”天保騒動とも云う。天保4年(1833年)以来の凶作による米価高騰や特産品である絹織物価格の暴落を直接の原因として、天保7年(1836年)8月21日夜に都留郡甲州道中沿いの村々の農民が犬目宿の兵助や下和田村の武七らの指導で決起し、笹子峠を越えて甲府盆地東部の米穀商や豪農を襲撃した事件を発端として、郡内領に止まらず甲府町方の他に甲斐国中の106ヵ村にわたる豪農・富商305軒を打ち壊し、一時的に甲斐国内を無政府状態と化した。

※“近江天保一揆”とは、江戸時代後期に起こった百姓一揆。“甲賀騒動”・“甲賀一揆”・“三上騒動”・“百足山騒動”等とも呼ばれる。典型的な『惣百姓一揆』(代表越訴型一揆と異なり、庄屋等の村役人層に指導された全村民による一揆で、規模が大きく政治的な要求を掲げた騒乱)である。天保13年(1842年)10月に、近江野洲郡・栗太郡・甲賀郡の300余の村々の農民4万人が幕府による不当な検地に抗議して立ち上がった大一揆で『検地十万日延期』の証文を勝ち取った

また農民等の一揆や騒動に加え、天保8年2月19日(1837年3月25日)には大阪で、飢饉による米不足の下、米買占めを行う悪徳商人や民衆の窮状を省みない役人に反発して、救民を訴えた大塩平八郎による反乱(“大塩平八郎の乱”)が起きた。更に同年6月1日(同年7月3日)、越後柏崎では国学者・生田万が貧民救済を掲げて蜂起(“生田万の乱”)、天保10年5月14日(1839年6月24日)には、幕府の鎖国政策を批判した高野長英等の蘭学者を捕縛した“蛮社の獄”が起きるが、これらの事件は何れも世情を顧みない幕府や幕吏・役人への批判がベースとなっていた点に留意する必要がある。即ち、博徒・渡世人や無宿者の単なる一過性の犯罪行為などとは違い、いよいよ幕末に向けた反幕・反体制のイデオロギーに支えられた反抗エネルギー/レジスタンスの発芽が開始されようとしていたのだ‥‥。

こうして天保期後半以降、出役の性格は単純な広域警察から公安警察として防諜的な活動を含んで徐々にその任務領域・職掌を広げていったとも考えられよう。

ところで同時期の天保7年(1836年)頃に開始された旧弊改革期の幕府首脳の一部は、幕府下級官吏との癒着関係を含む村役人層の数々の不正行為の恒常化を問題視していたとみられ、何とかしその悪習の克服を図ろうとしていた。また、天保9年(1838年)の段階では、先ずは出役配下の道案内の管理・統制の強化を意図していたともされるが、こうした一連の改革志向の結果が、“合戦場宿一件”へと結実していったと考えられている。

※“合戦場宿一件とは、合戦場村(かっせんばじゅく)で起こった事件のこと。天保10年(1839年)4月、関東取締役10名が、贈収賄などをめぐって処罰された事件が起きた。これは、関東取締出役の手先を長年勤めていた野州合戦場宿の百姓福村屋太六他1名が、火附盗賊改に召し捕られたことが切っ掛けであった為に、一般に『合戦場宿一件』と呼ばれている。

※合戦場村は、昔は家中村と呼ばれていた地域である。戦国時代の大永3年(1523年)に、宇都宮忠綱と皆川宗成が合戦した川原田合戦に由来する村落の名前だ。また川原田合戦は今から500年近く前の大永3年(1523年)、宇都宮忠綱と皆川宗成が戦い、皆川勢の援軍を含めた300名以上が戦死した合戦であったが、里人が死者を1ヶ所に集め弔ったと伝わる。

この“合戦場宿一件”によって当時の関東取締出役が一斉に罷免・入れ替えとなり、また村役人の大量処罰が実施され、それまでの出役と在地との悪しき関係・慣行の是正を目的とした“文政改革”に匹敵する改革が断行された。

これには前述の通りに“天保の改革”の前段階との関連や、関東取締出役と上役との関係性を考慮する必要性があり、幕府の天保10年(1839年)以降の出役の在り方に関する方針については、幾度も試行錯誤が繰り返されていくのだった。

この頃、勘定所内において関東取締出役の活動に改革が加えられ、一旦は出役の活動を規制・統制する目的で勘定奉行→取締代官→関東取締出役という文政10年(1827年)以来の指揮系統の重要性が強調されている。しかし、この指揮系統は天保12年(1841年)3月以降、勘定奉行と関東取締出役がより直接的な関係を持つ体制へと再度変化した(後述)。

尚、川越藩の記録によれば、この“一件”の審議担当者であった公事方の勘定奉行・遠山金四郎景元は、審議過程を老中の水野忠邦へと報告しており、更に他の審理側高級官吏には羽倉外記の名も見える。

※遠山景元、幼名は通之進、通称は金四郎。官位は従五位下左衛門少尉。江戸時代後期の旗本で、天保年間に勘定奉行や江戸北町奉行、大目付となる。後に南町奉行を務めた人物で、現代では『遠山の金さん』としても有名な人物。

※羽倉簡堂、名は用九で天則などと号し通称は外記を名乗る。江戸末期の幕臣(旗本)で儒者だが、“天保の改革”で登用されて川路聖護や江川太郎左衛門英龍と共に幕末の三英傑と謳われ、御納戸頭から勘定吟味役となる。若くして古賀精里に学び、また江川や広瀬淡窓とも交わる。父も旗本で代官を勤めたが、その死後を継いで関東・東海地方の代官を歴任し、伊豆諸島の巡察を行った。

また、“合戦場宿一件”を切っ掛けに出された関東御取締出役心得方之儀御達書』は、新たな関東取締出役就任者を対象としたものであるが、従来の方針の再度の徹底が行われた。

天保11年(1840年)正月には組合村に対する触が出され、こちらでも“文政改革”の再徹底が図られ、この時、「出役の実意の取計」や教諭専一」が重要とされた。

同年3月には羽倉簡堂(外記)と関保右衛門が取締代官に就任。前述の通りに勘定奉行→取締代官→関東取締出役という指揮命令ラインの再強化が図られたが、天保12年(1841年)3月には、出役の取締代官役所詰めが廃止される。こうして取締代官制が変更され、勘定奉行の関東取締出役に対する直接管理のラインが強化され、この年の4月を境に幕府の諸記録から出役が所属する取締代官名が消滅する傾向にある。同年10月には代官在陣令が発布されており、忠邦政権による代官政策路線との関係性にも注目したい。

またこの時期、出役は飢饉対策・銭相場と物価の引き下げ、囲米酒造制限河川監察と鉄砲改めなどを実施しており、天保12年(1841年)2月には、将軍・家斉の薨去にあたり喧嘩禁止その他の触書の請書を村々から請け取るなど、出役が廻村・教諭を行って請書を取るという支配化領国(天領)の統制方法が容易で確実なものとなっていき、以降、幕府は組合村を基礎とした関東取締出役の廻村による政策浸透(調査)の仕組みを最大限に利用していくのである。

次いで天保15年(1844年)には道案内の改革が行われ、道案内の給金は組合村が負担することになる。既に述べた様に、組合村の体制が確立することによって圏や道案内関係の費用などを組合村が負担することになり、通常の犯罪取締りもある程度は組合村に任せ、関東取締出役は新たな活動領域での服務も可能となった。

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