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【古今東西名将列伝】 エヴァルト・フォン・クライスト(Ewald von Kleist)将軍の巻 〈3JKI07〉

1941年10月6日のキエフ陥落後、第1装甲集団は第1装甲軍(Panzergruppe 1)に拡大・改称され、引き続き司令官はクライスト(10月5日任命)が勤め、彼の部隊はドン河とコーカサス方面を目指して進み、アゾフ海沿岸の要衝ロストフ・ナ・ドヌへと向かった。

そして第1装甲軍の先鋒部隊(具体的には第3装甲軍団所属の第1SS自動車化師団“LSSAH”)は11月20日~21日にかけてロストフを一次的に占拠したが続く激烈な攻防戦の結果、1週間後には町を奪還され、SS部隊は敗走してしまう。その余波で第1装甲軍主力はミウス河まで退却を余儀なくされるが、これが南方軍集団司令官ルントシュテットの解任に繋がる。

結局はヒトラーの了解を得てこの地域の独軍はタガンロクまで撤退、ハリコフ~アルチョーモフスク~タガンロクの戦線に強固な防御陣地を敷いたが、一連のソ連軍の反撃によりイジュムとバルヴェンコヴォにソ連側の突出部が形成され、以降、クリミア以外の戦線はドン川以西で膠着状態を見せた。尚、クライストは、1942年2月17日に柏葉付騎士十字章(72人目の受章者)を授与されている。

暫くの沈静(厳寒)期間を経て、翌年、ハリコフ奪還を目指すソ連軍の(春季~夏季)作戦が5月12日に開始された。独軍側でも夏季攻勢計画(後述の「ブラウ作戦」、作戦名「青の場合(Fall Blau)」)が立案されていたが、その準備段階としてイジュム突出部を排除・粉砕する「フリデリクス作戦」が計画されていた。それは、パウルス将軍第6軍が北方から、クライスト第1装甲集団が南方面から、イジュム突出部の根元付近を挟撃するという作戦であった。

しかしソ連軍・南西部正面軍(第21や第28軍など)の攻勢により独軍の第6軍は防衛線の維持で精一杯となり、クライストの第1装甲軍に第44軍団・第52軍団など(異説在り)から成る増援部隊を加えて臨時クライスト軍集団が編成され、17日にはイジュム突出部への攻撃を開始した。

東部戦線の独軍装甲部隊

5月17日午前4時、第1装甲軍所属の第3装甲軍団(エーベルハルト・フォン・マッケンゼン騎兵大将、後に上級大将)が南部正面軍の第9軍(ハリトノフ少将)と第57軍(ポドラス中将)が守備するイジュム突出部の南翼に向けて攻撃を開始した。ソ連軍のこの戦区では充分な防御陣地が構築されておらず、また陣地の縦深もわずか5kmほどに過ぎなかった。そこでクライスト軍集団は、翌18日までにスラヴィヤンスクからイジュムに至るドネツ河の西岸地域を占拠し、結果として幅80kmもの楔をソ連軍占領地の南翼に開けることに成功したのだった。

5月22日、第3装甲軍団の先頭を進むフリードリッヒ・キューン少将(最終階級は装甲兵大将)指揮の第14装甲師団はバラクレヤ東方でドネツ河に到達、ハリコフ南方のイジュム突出部に布陣するソ連軍の2個軍(第6軍と第57軍)は退路を断たれ包囲された。同月28日には、この所謂「第2次ハリコフ攻防戦」は終結し、この戦いで戦車652両・火砲4,924門・兵員26万7,000人を失ったソ連軍は、ハリコフ奪還を目指す戦いで大敗を喫した。

こうして「第2次ハリコフ攻防戦」において、クライストはソ連軍が守るイジュム突出部南側を粉砕し撃破する主役となったのである。

このクライスト軍集団の解散後、再び第1装甲軍は南方軍集団に属したが、その後に新たに編成されたA軍集団(司令官はヴィルヘルム・リスト元帥)の所属へと異動となる。この時、南方軍集団は前述のブラウ作戦の目的に従って、コーカサス地方へと進出しグロズヌイ(現在のチェチェン共和国の首都)とバクー油田を攻略・占領することになったA軍集団と、スターリングラード占領を目指すB軍集団に7月9日付けで分割されたのだった。

ちなみに、南方軍集団司令官であったフェードア・フォン・ボック元帥は一旦はB軍集団を任されたが、ヴォロネジでの停滞や作戦指揮を巡ってまたもやヒトラーと対立(前年のモスクワ攻略戦に際して中央軍集団司令官を解任されていた)して7月13日にはB軍集団司令官を更迭され、後任にはマクシミリアン・フォン・ヴァイクス上級大将が起用された。

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