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【古今東西名将列伝】 エヴァルト・フォン・クライスト(Ewald von Kleist)将軍の巻 〈3JKI07〉

こうしてこの戦域での独軍の優位性は完全に失われ、またこれ以降、クライストの率いるA軍集団が東部戦線で積極的な攻勢を再開することは無かった。更に主戦部隊から外れたA軍集団から強力な装甲部隊は外れ、これ以後は1944年まで第17軍(一時期は再編第6軍やルーマニア軍も編入)等が主力の部隊となる。

更にこの頃から、戦局が大いに不利となった独ソ戦の作戦遂行について、クライストとヒトラーとの間では意見の衝突が続き、度々、重大な対立を招いていた。そして1944年3月29日、ヒトラーと会談した彼は(南方軍集団司令官のマンシュタインと共に)司令官を罷免された。こうして彼はA軍集団司令官を解任されて予備役へと編入させられたが、実はこの際、ヒトラーはクライストに友好的に話しかけて休養を勧めたと云う。ちなみにクライストは、3月30日に柏葉・剣付騎士十字章(60人目の受章者)を授与されている。

※クライストは「私が別れの挨拶をした際に、軍人として常に落ち度があったとは思えない、とヒトラー自身が述べた」と語っている。その後、彼は1944年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件が発生した時点でゲシュタポに一旦拘束されたが、釈放されている。

※クライストは、ヒトラーに対しての意見具申の際においても、対立を恐れずに常にハッキリと自分の意見を述べた人物の様だ。但し、その直接的で率直な表現が多くの人々から誤解を受けたこともある様で、皮肉屋だとか傲慢だとかと評されている事が多い‥。また自らを「本質的に前線の将軍」であるとし、もっぱらの関心事は「(現実の)軍事的な勝利」であって「(机上の)理論書を書くことではない」と語ったとされる。更に彼は「実はクラウゼヴィッツ(『戦争論』)を読んだことはない」と述べ、「ソ連軍はクラウゼヴィッツをよく読んでいたに違いなく、私が読んでいなかったのはまずかったかも知れない」と半ば冗談、そして幾分自嘲気味に回想している。

 

1945年4月25日にクライストはバイエルンで米軍の捕虜となるが、敗戦後のニュルンベルク裁判では証人としてマンシュタイン元帥らと共に証言台に登った。しかしその後、クライストは1946年8月にユーゴスラビアに引き渡され、戦争犯罪人として懲役15年の判決を受けた。

更に1948年には(東部戦線で大いにソ連軍を苦しめた)重大なA級戦犯としてソ連に引き渡されて、終身禁固の判決を受ける。そして1954年10月16日にソ連のウラディミロフカ捕虜収容所で獄死した彼だが、大戦を生き延びた他の著名な独軍将官に比べて、その最後の境遇は悲惨であったと云えよう。

 

グデーリアンやロンメル、マンシュタインの様な知名度は無いが、堅実で手堅い采配は高く評価され、今日でも「独軍における優れた装甲部隊指揮官で戦車戦術家」としての評価は高い人物であり、間違いなく“古今東西の名将”の一人と云えよう。

-終-

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