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【江戸時代を学ぶ】 江戸の武家屋敷(特に大名屋敷・江戸藩邸)について 〈25JKI00〉

江戸時代において、江戸市中に常住する武家には幕府から屋敷地が(貸し)与えられた。これらの武家には、各大名家と徳川家の直接の家臣である幕臣(直参と云う)の旗本や御家人がいたが、この内、大名の屋敷が特に江戸藩邸と呼ばれていた。

そしてこれらの屋敷地は、原則として江戸幕府/徳川将軍家から(貸し)与えられた物であり、その名は拝領屋敷と呼ばれたが、決して下賜(所有権を移転)された訳ではなく、あくまで使用権を貸与されたのだった。一方で、大名らが民間の所有する農地などの土地を購入(所有権を取得)し建築した屋敷は、抱屋敷(かかえやしき)と言われた。但しこの場合、その土地にかかる年貢や諸役の負担義務は継続した。

また中でも大名たちは、江戸市中に上屋敷・中屋敷・下屋敷など、場合によっては他にも複数の屋敷を所有していたが、大名家(藩)の規模の大小によりその屋敷の大きさや数も異なっていた。同様に直参の旗本や御家人たちも屋敷を持っていたが、旗本クラスでも高禄の者は本人居住の屋敷の他に予備の屋敷(下屋敷)や別荘などを持っていたとされる。

 

江戸の大名屋敷の成立と江戸藩邸

江戸時代の当初、江戸城下には幕府(公儀)や他藩との連絡拠点であると共に幕府に対して人質を差し出す為に各大名が屋敷を普請、その後、大名自身が江戸に逗留する期間が増えて長期滞在の為の屋敷となり、やがて寛永12年(1635年)には『武家諸法度』に基づき参勤交代が制度化され、大名の隔年の居住場所(正室と嫡男・継嗣は江戸常住)となった。そして、これらの幕府から江戸市中に敷地を与えられて建築した屋敷(拝領屋敷と呼ぶ)を、特に江戸藩邸と称した。

この江戸藩邸は、幕府と各藩を結ぶ政治的な窓口の役割も果たしていた。幕府からの連絡は藩邸に伝えられ、その後、藩邸を経て本国へと送られた。逆に本国から幕府へと上申する場合も藩邸を経由して伝奏された。また、江戸藩邸の敷地内は幕府の統制の外とされ(治外法権)、まさしく現代の各国の大使館の様な位置づけにあった。特に大名本人が居住する屋敷(上屋敷/居屋敷)は諸藩の江戸公邸(藩の江戸連絡事務所としての性格が強く、ここを拠点として幕府と協議・折衝したり、他藩と情報交換などを行った)として発展していった。

※江戸幕府の開幕後、慶長期~元和期~寛永期にかけて江戸城や江戸の町並を築城・造成・整備する為の大規模な“天下普請”を各大名家が分担、各藩の主で指揮官である大名本人の江戸に滞在する日時が増加したとされる。

※寛永12年以前から各大名は自発的に江戸に赴くことが多かったとされる。幕府から強制されたと云うよりも、自ら徳川家の御味方であることを示す為に江戸に滞在する形をとり、幕府の側もそんな彼らに対して江戸市中に屋敷を与えた。外様の場合、最初の頃は譜代大名の屋敷に泊めてもらっていたが、逐次、専用の屋敷地を(貸し)与えられていった。

※但し大藩の江戸藩邸には、時の将軍が直々に訪ねてくる“御成り”が頻繁に行われ、接遇する側の大名家では将軍一行を持て成す為に庭園や能舞台などを造成したり改築することを余儀なくされたと云う。

 

拝領屋敷抱屋敷

江戸幕府/徳川将軍家から与えられた拝領屋敷は、先に述べた様に持ち主の大名/藩や幕臣が改易・除封(取り潰し)となれば、その使用している屋敷地を直ちに幕府に返却しなければならなかった。そして幕府は接収した屋敷をそのままの状態で他の大名へと入居を命じたり、上物を取り壊して更地として空き地の状態で保有したり、防火用の火除け地としたりもした。即ち、重大な過失等があれば、それを理由として一旦貸し与えた屋敷地を早期に返還させたのである。

※拝領屋敷とは、厳密には藩(という組織・団体)に貸与されるのではなく、特定の家である大名家(藩の領主・個人の血筋)に与えたという概念の方が正しい。

また改易などに当たらずとも重要な役職を退いたりすれば、その大名は屋敷替えを命ぜられることも多々あった。例えば老中や若年寄などの重職は江戸城に頻繁に出勤する為、通勤に便利な大手門外や西の丸下付近に屋敷を与えられていることが多かったのであるが、人事異動によりそれまでの役職を退いた場合は、後任者と入れ替わる形で屋敷も変更となったのである。

※本来、城下町においては、有力な譜代の家臣の屋敷を城の周辺に配置して防衛上の小要塞・砦としての機能を持たせたが、江戸時代も時代を経るにつれてそうした意味合いは薄れていき、主の居城に近い場所に屋敷を有するという家臣の家格の高さ・ステイタスを誇る点に重点が置かれていく。

尚、ここで面白い点は、こういった屋敷替えの際に建物の梁や柱・壁、そして屋根などの建造物の主要な構造部分はそのままだが、襖や障子、雨戸・畳などの建具や装飾材、また庭園の庭木・庭石等はその大名の固有の所有物・私有財産として移転先へ運搬することを許されていたことである。言い換えると、そういった部分は各自が私費で用意していたのである。

こうした拝領屋敷は、本来は与えられた者が自ら居住(使用)することが大原則ではあったが、例外的に親類縁者などに屋敷内の一部を貸し与えることもあった。慣例的に地代など取らなければ見逃されていた様だが、流石に大名家では稀であったが中には有償で貸し出す不届き者(特に下級少身の旗本・御家人など)もおり、幕府は何度も禁令を布告している。しかし後年になると下級少身の幕臣たちに対して与えられた拝領町屋敷や町並屋敷と呼ばれた、合法的な貸し屋敷地も存在した。

拝領町屋敷とは、江戸時代において御家人などの下級の幕臣(例えば、具足同心や黒鍬方・小人方・納戸同心、伊賀者・掃除者など)に与えられた“拝領屋敷”の敷地内に長屋などを建てて、町方の者等を居住させた上で賃貸料などを得ることを認められたものである。寛文期~元禄期(1661年~1704年頃)以降、本来の扶持米では生活を維持出来ない下級幕臣に対して、幕府は拝領地の町屋敷化を認めざるを得なかった。

※町並屋敷と言って、江戸幕府や徳川宗家に仕える大奥女中・御殿医/奥医師・表坊主/奥坊主奥絵師・能役者等に対して給与して、それを彼ら・彼女らが町人等に貸し出して地代などを徴収した屋敷地があったが、武家地としては極めて異例のものである。

そして当然ながら、拝領屋敷を抵当に借財等をすることは固く禁じられており、これに反すると重刑(屋敷地没収・百日の押籠)を課せられた。但し『相対替(あいたいがえ)』と称して、ある程度古い物件の場合に限り、幕臣間などであれば屋敷地の交換が認められていた様である。勤務地などが変わったり、または他の何らかの要因で居宅の屋敷地の変更を望む者どうしが交渉により届け出の上で交換を行ったのである。

※大名家だけではなく、旗本などの幕臣においても役職や知行の変更などの理由によって、割と頻繁に屋敷替えは行われたとされる。

だが周辺環境や屋敷地の面積・建坪、建造物の築年等の違いがあるから、単純な無償交換とはならない場合が多かった。そこで条件不足の側が差額として金銭を支払って解決したが、その金額の相場は時代や状況によって変動した。また買い手側は、相手の屋敷内をつぶさに点検・見聞して少しでも粗(あら)を見つけて、自家の受け取る額を増やそうとしたのは現在と同じだったと云う。

※『相対替』の条件は、新規の拝領屋敷は3年経過することが条件であり、また一度『相対替』した屋敷は10年経過する必要があった。しかし文化元年(1804年)、前者については年限の規制を廃し、後者は5年に短縮された。更に文久元年(1861年)には、5か月以降の再度の『相対替』が許可されるようになった。

既に記した様に、上記の様な幕府から与えられた土地に建てられた屋敷は拝領屋敷と云うが、一方、大名や大名の家臣、また旗本や御家人などの幕臣が民間の所有する農地などの土地を購入し建築した屋敷は、抱屋敷(かかえやしき)と呼ばれた。

抱屋敷は総じて江戸の郊外にあり、各家により様々な用途に使用された。拝領屋敷と異なり、それまでその土地に掛けられていた年貢や諸役は、各家の所有となった後も負担する必要が残った。また、屋敷や土地は幕府の職制の一つである屋敷改(やしきあらため)の支配を受けた。

※屋敷改とは江戸幕府の職制。書院番・小姓組の出役で若年寄の支配に属し、江戸府内の屋敷地に関する一切の行政事務を司った。

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