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日本の鉄道博物館訪問シリーズ 第6回 碓氷峠鉄道文化むら その2客車・電車・気動車編 〈17/38TFU03〉

碓氷鉄道文化むらの続編、今回は電車や気動車もレポートしようと思いましたが、よくよく調べてみると、実はここにいる客車たちの歴史には、戦争や災害などの様々なドラマがあったのでした。そこで、「その2」では客車を中心に、総括してみます。(画像はすべて筆者撮影。2019年5月訪問。)

マイネ40 11

GHQ占領下で生まれた車輛です。太平洋戦争終戦から3年の1948年、当初はGHQ幹部が日本国内を移動する目的で製造された1等寝台車です。しかし最終的には、「軍用でなく日本側で外国人観光客輸送に使用し、余裕があれば日本人も利用出来る」という事で完成させる承認を取り付け、戦後初の新製寝台車となりました。とはいえ、実際はほとんどが進駐軍専用もしくはそれに類する列車に投入され、東京 – 札幌間を途中青函連絡船に積載されて直通するなどして全国の主要幹線ルートを往来しました。戦後の物資が乏しい中で、GHQの要求に応えようとカーテンや布団は西陣織で、寝台の仕切り板はピアノの木工技術を応用するために、日本楽器に依頼したと言われています。当時の贅を尽くした高級な車両だったのですね。車内は片廊下式の2人用個室寝台4室8名分と、中央通路のプルマン式開放寝台8区画16名分の寝台を備えていました。1968年には用途が変わり、一般の旅客が乗れない事業用客車(工事車)になりました。国鉄時代の鉄道工事で、専門の技師が人里離れた工事現場にとどまる際、専用の宿泊施設として提供された車両になったのです。白帯に表記されたJGRはJapanese Government Railwayの略称。ただ、気が付く人は殆どいないようです。全国でも稀有な戦後の混乱期を知る歴史的な車輛、戦争の歴史博物館のようなところに保存したほうがよいのではないでしょうか。

 

オシ17 2055

こちらは、食堂車廃止に向かわせた悲劇の車輛です。1956年製造の日本の食堂車で全テーブル4人がけとした初めての形式です。当初から冷房装置を搭載していました。新製当初は、東海道本線の特急列車「つばめ」にも連結され、スマートな車体と明るい車内で大変に好評を博しました。常磐線などでも特急で活躍した後、全車急行列車用に転じました。しかし1960年代後半には東海道新幹線の開業に伴う夜行急行の廃止、あるいは置き換えにより余剰車が出始めます。そしてオシ17を使用停止に追い込む決定的な事故が、1972年11月6日に起こります。「北陸トンネル火災事故」です。北陸トンネル内を走行中の大阪発青森行きの急行「きたぐに」の食堂車だったオシ17 2018の喫煙室椅子下から火災が発生しました。事故発生が夜中の1時で乗客の大半は就寝中であったこと、トンネル内で煙がひどく視界が悪かったことなども影響し、避難救助は難航を極めたそうです。おまけに消火器以外の消火設備がまったくなく、またホースをトンネル内に伸ばすこともできなかったことから、消火作業は何もできないありさまだったそうです。死者30人、714人にものぼる負傷者を出すという大惨事でした。火災の原因は、オシ17形の喫煙室椅子下にある電気設備のショートとされましたが、初期の段階ではオシ17形調理室の石炭レンジからの出火、あるいは、喫煙室でのタバコの火からの出火の説もありました。特に当時は石炭レンジ説が有力で、筆者も子供心に「食堂車の火力が石炭だったの?」と驚いた記憶があります。いずれにしてもこれを境に、オシ17は運用からすべて外されてしまいます。このオシ17 2055は、1974年にオヤ17という教習車に改造されます。教習車は、車内に機材を積んで各地を回り、関係職員に構造や操作について教習する車両です。このオシ17も食堂車時代の、休憩室にデッキを設けて講習室・高圧機器室・調理室だったところにシュミレータ運転台が設置されました。廃車後は、再び食堂車時代の「オシ17 2055」に戻されましたが、妻面には運転台の窓が残っています。床下も水タンクなどが撤去されていて、スカスカです。車内を食堂車に戻し、ときどき往年のメニューを食べさせてほしいと思うのは、私だけでしょうか。

オハユニ61 107

1955年登場の座席・郵便・荷物合造車。客車の定員は40名。郵便は2トン(郵袋167個)、荷物は3トンが積載できます。そもそも60系は鋼体化車両。大正時代に製造した木製の車輛の台車や台枠を流用する鋼体化の歴史も、戦争の歴史と重なります。戦争中、車両の製造は低下し、検査を十分に受けずに車両を酷使していました。戦後復興とともに激増する需要、車両の老朽化。その結果、1947年には八高線で買い出し列車が転覆し、184名の命が失われました。危険な木造車両たち。しかし、財政的にも鋼製の車輛を作ることもできず、加えて連合軍総司令部民間運輸局(CTS)の承認も得られず、新製は不可能でした。そこで運輸省は、木製客車の足回りを利用して、車体の鋼体化を発案します。そして1949年から工事に着手。3000両を超える鋼体化が行われました。この車両も足回りは木造車のナハ24だったものです。車内は座席の背板が塗られてしまっていました。なんだかつくりもののような、ペタッとした風情の無い車内になってしまっています。

 

オハネ12 29

1958年 製造の軽量構造の寝台車。当初は軽量客車のナハネ11として登場、その後冷房化で自重が増えて「オハネ12」となりました。武骨なイメージだった客車を、プレス成型や裾を絞った車体デザインなどで、近代的なものに様変わりさせました。軽量化により、輸送力も増強されました。現役末期は門司港~長崎の普通列車「ながさき」で使用されていました。筆者も好きな車両でしたが、はっきり言って、乗り心地は悪かったです。振動・動揺、窮屈さ(通路に椅子がない、上段寝台の目の前に大きなクーラーがせり出している)など、眠れぬ夜を過ごしました。

ナハフ11 1

1957年製造の軽量客車。日本初の本格的軽量客車の10系系列。輸送力増強・速度向上などを目指して、徹底的に軽量化を図られました。外観も大型化したアルミサッシの側窓とノーシルノーヘッダーのヨーロピアンスタイルの軽量車体で、台車は新設計のTR50でした。特急の運用に始まり、昭和30年代の集団就職列車、山陽方面の急行では新婚旅行客の輸送など、鉄道全盛期を支えた客車です。しかし、1977年の50系客車の製造開始とともに大量に廃車されました。ナハフ11は新製時より室内灯に蛍光灯が採用され、出入口扉も変形2段折戸から(開閉窓付き)1枚開戸に変更されています。

スニ30 8

1927年製の日本車両製造の荷物車。
鋼製荷物車スニ47 807として製造され、スニ36 507、改造されてスニ30 8 、救援車に改造されスエ30 9、そして廃車後にスニに戻されました。きれいな状態に整備されていました。ちなみに救援車は、脱線・衝突などの事故の際に、救援用の機材や人員を運ぶ車両です。

あと、客車ではお座敷客車 スロフ12 822 オロ12 841がいます。これは、急行型12系客車を改造し、お座敷客車として使用されました。

また、一般型気動車のキハ20 467、ステンレス車体のキハ35 901、珍しい荷物用気動車のキニ58 1。他に、DD51 1や除雪用ディーゼル機関車のDD53 1号(北海道で活躍)がいます。

また特急「あさま」で活躍していた189系電車は3両保存されています。国鉄色がきれいなクハ189 506(旧N105編成)、あさま色のクハ189 5とモハ189 5(旧N207編成)、こちらは無残な姿でした。

【講評】横川機関区の後に立つこの施設は、EF63に注目が集まりますが、機関車も客車も実に貴重なものでした。開園から20年が経過し、来場者数の減少など苦戦しているようです。碓氷峠越えの記憶を残していきながら、戦後日本の歴史を辿ってきた車両たちの保存。頑張ってほしいです。背後の山々が素晴らしく、園内でも買える名物の「峠の釜めし」を食べながら風景を楽しむこともできますし、小さなお子さんは、園内を走る観覧列車やミニSLも楽しめるのではないでしょうか。ただ、屋外の保存で手入れは大変そうです。点検・修理費用は増加しており、財団はこれを賄うため「サポーターズ制度」を導入し、寄付金やボランティアも募集中です。

【勝手に採点】  ※ 満点は☆が5つ
行きやすさ                 ☆☆☆
車両の見やすさ               ☆☆☆☆
保存状態                  ☆☆☆
貴重な車両の多さ              ☆☆☆☆
鉄道知らない人でも楽しめる度        ☆☆☆
また行ってみたい度             ☆☆☆☆

【開館時間】

9:00〜17:00
休館日
火曜日、 年末年始(12月29日〜1月4日)
入園料(個人)一般 500円(中学生以上)、小学生300円、小学生未満は無料

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