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【歴史小話】江戸城、「下馬評」の所以(長文注意)〈1647JKI11〉

特定の個人について、第三者が身勝手に行う批評・噂話のことを「下馬評」と云いますよネ。この言葉の由来について、本投稿では詳しく触れてみたいと思います。

さていきなり結論から入ると、「下馬評」とは江戸時代において登城した主人を待っている間、供の者が互いに行う噂話や世評の意で、「下馬評に上る」などと使いました。またここでの「下馬」とは馬を降りることであり、城などを訪問した者が馬から降りる場所を「下馬先(げばさき)」と呼びました。

当時は、武家や公家などの支配層にとっては馬や駕籠が主な移動手段であり、城や屋敷、寺社などでは謂わば現代の「駐車場」の様に、馬を降りてその馬を留め置く場所が決められていました。主人に付き従って来た従者たちは、その下馬先で主の用事が済んで戻って来るのを待っていましたが、その間に供の者たち同士で、主人たちの評判や城内の人事などについての色々な噂話をしたことが、この「下馬評」の由来になったとされています。

江戸城・大手門の門前には、「下馬(げば)」という札が立っており、大名や旗本が江戸城へ登城する際には、本丸に登城する場合には「大下馬」と呼ばれた大手門や内桜田門、西の丸へ向かう場合は西の丸大手門を利用しましたが、また登城人数が多くなる式日には、大手門より外側の鍛冶橋、呉服橋、常磐橋が下馬の場所となりました。

ここから先は、大名や高家・交代寄合などを含む役高500石以上の旗本(「乗輿以上」の格式を有する者)以外は、馬や駕籠から降りなければなりませんでした。この先に連れていける供の人数は、三家や四品、10万石以上の大名や国持大名の嫡子は13名、1万石から10万石の大名は10名から11名に制限されていました(諸説あり)。

尚、大手門の警固は10万石以上の譜代大名から選ばれ、この門は江戸城にある城門の中で最も格式が高いとされており、大手門の開閉時間は享保6年(1721年)の定めによると「卯の刻(午前6時ころ)から酉の刻(午後6時ころ)まで」と決められていました。

江戸城登城の正面玄関である大手門をくぐるとそこは三の丸となり、三の丸から濠に架かった下乗橋を渡ると二の丸入口に大手三の門がありました。下乗橋の前の広場には同心番所があり、登城した者の供衆を監視していました。そしてこの門より先の二の丸へ駕籠に乗ったままで入城できるのは、尾張藩、紀州藩、水戸藩の「徳川御三家」の藩主だけで、御三家以外の大名はここで駕籠を降りなければならなかったことから、「下乗」の高札が立てられていました。

ちなみに大手門前には、大名や旗本たちが下城するのを待つ供の者やその行列風景を見物する人々が大勢集まっていたので、彼らを相手にした各種の商売が行われたとも伝わっていて、いなり寿司や蕎麦や甘酒などの飲食物を売る屋台が多く出店したと云う話もあります!

〈終〉

※掲載写真には、投稿内容に直接関係ないものが含まれている可能性があります。

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